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オリヴィエ・メシアン、世の終わりのための四重奏曲

国際的なクラリネット奏者として多彩な演奏活動を行い、パリ地方音楽院やローザンヌ高等音楽院で教鞭をとるフローラン・エオー氏。エオー氏がフランスで執筆中のブログの日本語版を、シリーズ化してお届けいたします。
 
 
フローラン・エオー氏 ブログ Vol.5
オリヴィエ・メシアン、世の終わりのための四重奏曲
 
“私の『世の終わりのための四重奏曲』は、私が捕虜として拘束されている間に構想・執筆され、1941年1月15日にシレジアのゲルリッツにあるシュターラッグ VIII-A(第8A捕虜収容所)で世界初演されました。” (オリヴィエ・メシアン)
 
これが『世の終わりのための四重奏曲』の起源です。
 
1939年、パリからヴェルダンへ
 
作曲家オリヴィエ・メシアンは、パリのトリニテ教会の首席オルガニスト、エコール・ノルマル音楽院およびスコラ・カントルムの教授です。視力の低下により戦力外通告を受けたメシアンは、補助看護隊員としてヴェルダンに派遣されます。
 

オリヴィエ・メシアン

 
エティエンヌ・パスキエは、同名のトリオのメンバーであり、パリ国立オペラ劇場の第2チェロ奏者です。戦争が始まると動員され、病気のためヴェルダンへ転属となりました。そこでメシアンに出会い、友人となります。
 

トリオ・パスキエ

 
クラリネット奏者のアンリ・アコカは、パリ・コンセルヴァトワール(現パリ国立高等音楽院)で1等賞(1935年)を受賞し、国立ラジオディフュージョン管弦楽団のメンバーとして活躍しました。動員でヴェルダンの軍楽隊に送られました。
 

アンリ・アコカ

 
メシアンはヴェルダンで、アコカのためにクラリネット独奏のための曲を書き始めました。
しかし、6月20日、3人の音楽家は逃亡を余儀なくされました。ドイツ軍に捕らえられ、ナンシー近郊の野外に拘束されました。
 
1940年、ナンシー近郊の移送収容所
 
クラリネットを片時も離さないアコカが、ナンシー近郊の移送収容所で『鳥たちの深淵』を初演しました。ここでは、その場しのぎの「譜面台」役を担ったエティエンヌ・パスキエによる説明を紹介します。
“私たちがまだこの現場にいるとき、楽器を持っているのがアコカだけだったので、メシアンは彼のために曲を書き始めました。そしてメシアンは、この四重奏曲の第3楽章となるソロを書きました。この野原でクラリネット奏者が野外リハーサルをし、私は彼の譜面台を務めました。彼はこの曲が技術的に難しすぎると感じ、メシアンに苦言を呈しました。メシアンの返事は「自分で何とかしろ」だけでした。”
 
1940年、ゲルリッツ
 
移送収容所で3週間過ごした後、メシアン、パスキエ、アコカの3人はシレジアのドイツ軍捕虜収容所、ゲルリッツ・モイスのシュターラッグ VIII-A(第8A捕虜収容所)送られました。
やがて、新しい囚人としてヴァイオリニストのジャン・ル・ブレールが加わりました。彼はクラリネット奏者のアコカと同じバラック、同じ二段ベッドに配置されます。
 

ジャン・ル・ブレール

 
カルテットの仲間全員が揃いました。”問題は楽器でした” とル・ブレールは説明します。
“4万人の囚人がいて、ヴァイオリンは4、5本、チェロは1、2本、ピアノは1台しかなかったのです。個人所有の楽器は、アコカのクラリネットだけでした。イギリス人やポーランド人も演奏したがるので、これらの楽器を共有しなければなりませんでした。不愉快な状況でした。そんな中で、どうやってメシアンのカルテットを演奏することができたのでしょうか。とても大変なことでした。”
 
メシアンは仲間の囚人のためにトリオを作曲しました。『間奏曲』です。そして、すぐにピアノとの他の楽章が完成しました。”シュターラッグには、ヴァイオリン奏者、クラリネット奏者、そしてチェロ奏者のエティエンヌ・パスキエが私と一緒にいました。私はすぐに、彼らのためにささやかな短いトリオを作曲し、彼らはバラックのトイレで、それを演奏してくれました。なぜなら、クラリネット奏者達がアコカのクラリネットを持って行ってしまっていたし、パスキエに与えられていたチェロには3本の弦しかなかったからです。この最初の音に勇気づけられ、このトリオを間奏曲として残し、それを囲む7つの曲を少しずつ加えていき、『世の終わりのための四重奏曲』は全部で8つのパートで構成されるようになりました。”
 
チェロとピアノのための『イエスの永遠性への賛美』は、四重奏曲の5曲目です。

Storioni Nacht: Messiaen – ‘Louange a l’eternité de Jesus’ voor cello en piano

1937年の万国博覧会のためにメシアンに委嘱されたオンド・マルトゥノ六重奏のための『美しき水の祭典』の一部である『Oraison』を改作したものです。

Messiaen: Quatuor pour la fin du temps – 8. Louange à l’Immortalité de Jésus

メシアンが1930年に作曲したオルガンのための『ディプティック』より一部抜粋 して作曲されました。

O. Messiaen: Diptyque (O. Messiaen)

他の曲は四重奏曲として書かれています。『水晶の典礼』(No.1)、『世の終わりを告げる天使のためのヴォカリーズ』 (No.2)、『7つのトランペットのための狂乱の踊り』 (No.6)、そして、『世の終わりを告げる天使のための虹の混乱』 (No.7)という作品です。
 
1941年1月15日、シュターラッグ VIII-A
 
メシアンはこの初演について、”鍵盤が下がることはあっても上がることはないアップライトピアノ”、”ストーブのそばでキーのひとつが溶けてしまった”クラリネット、”残念ながら弦は3本だけ”のチェロ(これはパスキエに否定されている)という伝説的ともいえる説明をしています。
エティエンヌ・パスキエによれば、初演は何百人もの捕虜の前で大成功を収め、メシアンとその同僚3人の釈放につながったといいます。ドイツ軍は、この4人の音楽家は戦闘員ではないと(それは誤りでしたが)考えていました。
 

シュターラッグ VIII-A の初演のプログラム

 
1981年秋、ポーランド
 
音楽学者C・B・ライは、リチェフスキ家の部屋を借りていました。『世の終わりのための四重奏曲』のリハーサル中、アレクサンダー・リチェフスキ氏が「混乱して動揺した様子で部屋に駆け込んできた」とライは書に記しています。
“この曲に聞き覚えがある” と言っていました。そして、同じ収容所で捕虜になったときのことを話してくれました。アレクサンダーさんは、この出来事を感慨深げに話してくれました。目に涙を浮かべ、立ち直るのに時間がかかりました。彼は初演に立ち会っており、カルテットを聴くために(ポーランド、中欧、フランスからの)何百人もの囚人が集まっていた広くて寒いバラックの雰囲気を鮮明に覚えていました。彼は、演奏の1時間ほどの間、完全な沈黙を守って座っていた囚人仲間たちのことを思い出しました。彼自身、この体験に深い感銘を受けていたのです。
 
『世の終わりのための四重奏曲』の誕生に関する驚くべき状況は、レベッカ・リッシンが「Et Messiaen composa… 」という本の中で語っています。(ラムジー社刊)。
 
 
フローラン・エオー氏 関連リンク
※ ブログVol.1 「ドビュッシー、クラリネットとピアノのための第一狂詩曲」はこちら
※ ブログVol.2「プーランク、クラリネットとピアノのためのソナタ」はこちら
※ ブログVol.3「シャルル=マリー・ヴィドール、クラリネットとピアノのための序奏とロンド」はこちら
※ ブログVol.4「ストラヴィンスキー、クラリネットのための3つの小品」はこちら
※ ブログ(オリジナル版)はこちら
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※ 本記事は、フローラン・エオー氏のご承諾のもと、2012年12月16日に公開されたブログ記事を株式会社 ビュッフェ・クランポン・ジャパンが翻訳したものです。翻訳には最新の注意を払っておりますが、内容の確実性、有用性その他を保証するものではありません。コンテンツ等のご利用により万一何らかの損害が発生したとしても、当社は一切責任を負いません。

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