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雲井雅人氏 Interview

「雲井雅人サックス四重奏団」の主宰や、ソロ、室内楽、オーケストラの奏者として国内外で幅広く演奏活動を展開され、国立音楽大学、相愛大学で若手奏者を指導されている雲井雅人氏。そのご経歴や現在の活動、愛奏するアルトサクソフォーン “SENZO”について、お話を伺いました。インタビュー後半では、「ヴィーヴ! サクソフォーンクヮルテット」の奏者、演奏と教育の両分野でご活躍されている荻島良太氏をゲストにお迎えしました。(取材:今泉晃一)
 

ヘムケ先生に習い始めると、目指している方向が同じであるということがすぐにわかった

 
  雲井さんは日本のクラシック・サクソフォーン界でかなり長く活動されていますね。
 
雲井(敬称略) 現役の中では古い方ですね。1983年にジュネーヴ国際音楽コンクールで入賞して翌84年に東京文化会館でリサイタルをしたのがデビューですから。
 
  当時はクラシック・サクソフォーンを学ぶ状況は今とは違っていたと思いますが。
 
雲井 もともと、音大は思い付きで受験しようと思ったんです。消去法で「自分のやりたいことはサクソフォーンしかない」となったので、クラシック・サクソフォーンがどうとは考えませんでした。もし音大に行かなかったらろくでもない人間にしかならないだろうと、親にもそう言いました。楽器ならがんばれる、と。考えてみればすごい論理ですよね(笑)。
 
  サクソフォーンは吹奏楽でやっていたのですか。
 
雲井 小学校、中学校、高校とやっていました。小学4年生のときに鼓笛隊の中に管楽器が入るようになり、トランペットを吹きましたが、先生も移調楽器などということがわかっておらず、みんなただ吹いているだけで合奏もしたことがありませんでした。
 中学は10人もいないような小さな部活で、「全部の楽器をやっていい」と言われました。金管はとりあえず全部吹けましたが、木管はサクソフォーンしか吹けませんでしたね。クラリネットは指使いがやっかいだったし、フルートは音さえ出ませんでした。サクソフォーンはリコーダーと同じ指使いなのでスラスラっと吹けるようになり、それでハマったという感じです。何か相性がよかったんだと思います。
 ちょうどサム・テイラーが流行っていた頃だったので、耳コピをしてテナーサクソフォーンで《ハーレム・ノクターン》とか《ダニー・ボーイ》とかを一生懸命吹いていました。
 
 高校に入るときにも、入学前に吹奏楽部に行って「入れてください」と言い、ずっとアルトを吹いていました。さっき言ったように成績は下の方でしたが、楽器だけは楽しいので学校に行っていました。一般大学も下見に行ったりもしましたが全然ピンと来なくて、国立音大を見に行ったときに「ここかな」と思ったんです。国立を選んだ一番の理由は、大室(勇一)先生が教えていらっしゃったからです。あとブラスオルケスタ―も魅力的でした。
 
  もともと大室先生と接点はあったのですか。
 
雲井 僕は高校まで誰にもサクソフォーンを習っていませんでした。そのまま受験して浪人して、そこから受験勉強を始めたんです。ひどい話ですけれど、思い付きだったんでね(笑)。最初は宗貞啓二さんに短期間お世話になって、すぐにフランスに留学されるということでその先生である大室先生をご紹介いただいた形です。それまで大室先生のことも知らない状態でした。本当に無計画なまま、とにかくサクソフォーンをやりたいというだけで、行き当たりばったりでした。
 
  今の活動につながるようなきっかけがあったのでしょうか。
 
雲井 大学に入ったら、深く考えず、もう自分はプレイヤーになるとしか思っていませんでした。宗貞さんなど当時活躍していた人は、ソロもやって室内楽もやって大学でも教えるということをしていたので、自分もそうなりたい、そのためにはコンクールでいい成績を取りたい、と漠然と考えていました。だいたいその通りにはなっているのですが。
 
 逆に吹奏楽団に入りたいと思ったことはそれまで一度もありませんでしたが、50歳の頃「なにわ《オーケストラル》ウインズ」に参加して初めて、「吹奏楽ってなんていいんだろう」と思いました。弦楽器と合わせることを知っているべテランの管楽器奏者が集まって合奏すると、ああいう音になるということですね。それがあの楽団のポリシーでもありましたから。僕もオーケストラに乗ることが多い方だったので、それで指名されたのだと思います。
 
 オーケストラに入団してしまうとなかなか吹奏楽ができないでしょう。なにわ《オーケストラル》ウインズでは、それでも吹奏楽をやりたいという人が集まって、3日間くらい朝から晩まで練習して演奏会をやるという企画でした。だから、プロオケではありえないくらい長時間の練習でも、誰も文句言わなかった。
 
雲井雅人氏
 
 楽団を気に入ったのは、客演指揮の丸谷明夫先生(元大阪府立淀川工科高等学校吹奏楽部顧問)のことが好きだったということもあります。不思議な魅力のある人で、私もああいう人に会ったのは初めてです。愛情あふれる人で、一流のオケマンに「あんたたちも本気出せば上手いじゃない」と冗談まじりでツッコミを入れるんですが、言われた方は大喜びしていました(笑)。
 
  大学を卒業してからノースウェスタン大学の大学院に進みましたが、サクソフォーンの主流と言ってもいいフランスではなくアメリカだったのはどんな理由なんでしょうか。
 
雲井 それは、国立音大の図書館で(フレデリック)ヘムケ先生のレコードを聴いて本当に衝撃を受け、「この人に習いたい」と思ったからです。しかも大室先生の先生ですから、ラッキーなことにつながりがありました。何より、フランス語をしゃべっている自分というものが、まるで想像できなかった(笑)。
 
 実際にアメリカでヘムケ先生に習い始めると、まだ英語もほとんどできなかったのに、目指している方向が同じであるということがすぐにわかって、すごく充実したレッスンを受けることができました。お互いに特別なつながりを感じていると思いますね。だからその後もずっと交流はありますし、国立音大に2週間来てくれたこともあります。
 ヘムケ先生のレコードを聴いて衝撃を受けたのは正解だった。もちろんデファイエとかミュールも大好きだったのですが、自分が習いに行くということとは結び付かなかったんです。
 
  ちなみに、ヘムケさんの演奏のどういうところにショックを受けたのですか。
 
雲井 言葉にすると陳腐になってしまうのですが、「ヒロイック」なところでしょうか。繊細でありながら英雄的で大胆という、他の奏者からは感じたことがないようなものを感じました。選曲もインゴルフ・ダールとかカレル・フサなどで、それもすごく格好よかった。デファイエの最高のレコードがパスカルとかリュエフ、ガロワ=モンブランなど手の込んだ緻密な世界だったのとはまるで別物でした。
 デファイエはフランスのサクソフォーンの到達した最高地点だと今でも思っていますが、自分がそれに迫っていこうという気にはなれず、ヘムケの方向性にはっきりと惹かれていたというわけです。
 
僕は、世界一マスランカの曲を演奏していると思っています
 
  その後、リサイタルやCDなどで取り上げる曲も、アメリカの作品が多いですね。特にデイヴィッド・マスランカの作品は数多く演奏されています。
 
雲井 ノースウェスタン大学で、彼の代表作である《子どもの夢の庭》という吹奏楽曲をテナーサクソフォーンで吹きましたが、本当に素晴らしい作品でした。以来“マスランカ”という名前は僕の中に刻み込まれていて、「この人がサクソフォーンの曲を書いたら、ぜひやりたい」とずっと思っていました。
 その何年後かに、マスランカがアルトサクソフォーンとピアノのための《ソナタ》を書きました。すぐに楽譜を取り寄せて練習しようとしたのですが、あまりに難しくて悔しまぎれに楽譜は出来そうな人に勝手に送りつけてしまいました(笑)。
 
 その後、雲井雅人サックス四重奏団(通称:雲カル)を結成して最初のリサイタルでマスランカの《マウンテン・ロード》という曲をやりました。ものすごく苦労しましたが、演奏できたんです。それができたので、もしかしたら《ソナタ》もできるのではないかと思って、もう一度楽譜を買い直しました。無理なことばかり書いてあるんですけれど、最終的にはできるようになって、リサイタルで演奏したりレコーディングしたりしました。
 
 《マウンテン・ロード》も《ソナタ》もマスランカにCDを送りました。そうしたら、「会ったこともないのに自分の音楽を深く理解してくれている」とすごく喜んでくれて、その後カルテットで委嘱して《レシテーション・ブック》や《ソングス・フォー・ザ・カミング・デイ》という曲を書いてもらうことになりました。
 《レシテーション・ブック》はアメリカに行って、ノースウェスタン大学で初演したんです。そこにマスランカも来てくれて、ヘムケもいて、素晴らしい時間でした。その後マスランカが日本に来たときに彼の《サクソフォーン協奏曲》を日本初演したり、新作を書いてもらったときにも初演に立ち会ってもらったりと、すごく交流がありました。
 
 もしマスランカに会っていなかったら、ありきたりなレパートリーをやり切ったあと飽きて萎んでしまっていたかもしれません。今年(2022年)9月に、雲カルがマスランカのサクソフォーン四重奏のための協奏曲を東京吹奏楽団とやるのですが、そんなふうに「やる気」がずっと続いているのはマスランカのおかげですよ。僕は、世界一マスランカの曲を演奏していると思っています。CDでも彼のサクソフォーンの曲はほとんど入れていて、やっていないのがその四重奏のための協奏曲と、あとはソプラノサクソフォーンのための《ソナタ》だけです。この2曲をやれば全部です。
 2016年に『Tone Studies』というアルバムを出しましたが、マリンバとの《ソング・ブック》、チェロ、ピアノとの《アウト・オブ・ディス・ワールド》、ピアノとの《トーン・スタディーズ》と3曲ともマスランカの作品でした。どれも大変な曲だから、自分が吹けるうちにやっておきたかったんです。
 

 
  最初にアルトサクソフォーンのソナタが吹けなくて、《マウンテン・ロード》の後で再挑戦したらできるようになったというのが面白いですね。
 
雲井 「普通サクソフォーンだったらできないだろう」ということを考慮しないで書いているから難しいのですが、《マウンテン・ロード》をやって、マスランカの世界がわかってから楽譜を見たからでしょうね。
 
 雲カルはバッハの《ゴルトベルク変奏曲》のサクソフォーン四重奏のアレンジを献呈されているのですが、初演のときに彼が来てくれて「リピートを全部してほしい」と言われたんです。そうすると1曲で75分くらいかかるんですよ。「無理だ」と言ったら、彼は「みんな最初はそう言う。でも結局はやるんだ」と。
 彼によれば「1回だけだとカタログをパラパラめくるようなものだけれど、リピートすれば2回聴くことによって聴き手が理解できる」と、結局押し切られてしまいました。彼がいるとき以外は繰り返しはしませんけれどね(笑)。この曲は大学の室内楽レッスンで学生たちに必ずやらせるのですが、バッハの音楽を演奏したこともないサクソフォーンの学生たちはすごく喜びますよ。1つのグループで全曲を演奏するのは無理なので、3つのグループに分けています。
 
 繰り返しになりますが、マスランカに会ったことで僕の演奏家生命が長らえているということは確実にあると思います。『Tone Studies』を作るときには彼とメールや電話でやり取りして、確認しながらやっていました。でもCDが出来上がって送る前に亡くなってしまったんです。
 
  マスランカ以外にも委嘱作品は多いですが、それはやはりサクソフォーンのレパートリーを広げていきたいということなのでしょうか。
 
雲井 うーん。僕の中にはそういう積極的な気持ちは強くないんです。マスランカに限っては積極的に新しい作品を委嘱していましたが、他に関しては自分の心に触れてくるものを選んで演奏している。それは委嘱作も同様だし、バッハとか、ロマン派の音楽に憧れて、サクソフォーン以外の曲に手を出すということも含まれます。
 

“SENZO”が僕のモチベーションを上げてくれた

 
雲井 ひとつ言えることは、楽器を“SENZO”にしてから、やりたいと思う音楽の傾向が変わったことです。この楽器にして、あるとき自分の本当に気に入る音が出るようになったんです。それまで買っただけで音を出したこともなかったような譜面も、全部引っ張り出して吹いて喜んでいました。それでも足りなくて、国立音大の図書館で誰も借り出したことのないような楽譜を借りてきて、ピアニストにも協力してもらってどんどん譜読みをして、その中から選んだ曲でCDを作ったのが『アルト・サクソフォーンのためのフランス音楽小品集』です。その勢いで、日本中で30回くらいリサイタルもしました。そういうことがすごく楽しくてね。
 さらにコロナ禍の直前に大阪フィルハーモニー交響楽団とトマジの《バラード》を3回演奏することができました。多くのコンサートが中止になるギリギリ直前まで、“SENZO”と一緒にできたんです。そのときもこの楽器は僕のモチベーションをすごく上げてくれました。
 
 以前は、アドルフ・サックスの息子(エドゥアール)の作った楽器も使っていました。アドルフ・サックスのオリジナルの楽器も国立音大の楽器博物館にあるものをさんざん触らせてもらいました。でもそれは金属も薄いしちょっと頼りないところもあります。
 その少し後にできた、1870年代の〈ビュッフェ・クランポン〉も持っているんですよ。低音はシまでしか出ない小ぶりの楽器ですが、音程も完璧で堅牢な作りです。そうやって吹き比べて見ると、アドルフ・サックスが作った楽器から“SENZO”まで、ずっとつながっているように感じるんですね。
 
  “SENZO”のお話になりましたので、ここからは、最近“SENZO”を買われたという、雲井さんの愛知県立芸術大学時代の教え子である荻島良太さんに加わっていただきます。今は主にどんな活動をされているのですか。
 
荻島 指導の仕事と、ソロの演奏、それから「ヴィーヴ! サクソフォーンクヮルテット」という四重奏のメンバーとして活動しています。ヴィーヴ!では毎年日本の作曲家に委嘱作品を書いていただいて、中・高校生がアンサンブルコンテストなどでも演奏できるレパートリーを拡大するということが大きな特色になっています。
 
雲井 僕は、彼が中学生のときから知ってるんですよ。
 
荻島 僕が中1のときに、学校に教えにいらしたんです。そのときはまだ見学していただけですが、後に愛知県立芸術大学で4年間お世話になることになりました。
 
  まずはお二人がどうして“SENZO”を買ったかというところからお願いします。
 
雲井 楽器屋さんに陳列してある楽器を、そこに行くたびに試奏していたんです。「いい音するなあ」と思いながらね。それを3回か4回やったかな。あるとき、「商談中」という札が付いていて、「ああ、この楽器も誰かに買われてしまうんだな」と思いながらお店の人に聞いたら「あなたが買うんですよ」と言われて。半分冗談だとは思いますが、その日のうちに買いましたよ。こんなにいいと思っているのに買わないのは確かにおかしいと思ってね。
 
雲井雅人氏(写真左)、荻島良太氏(写真右)
 
  そもそも、最初に“SENZO”を吹いてみたきっかけは?
 
雲井 教え子が持っていて、すごくいい音で吹くんですよ。それがきっかけです。僕も、大学生の頃にはデファイエのような音が出したくて、〈ビュッフェ・クランポン〉の“S-1”を使っていたんです。デファイエの音は、どうやっても全然出ませんでしたが。
 
  “SENZO”を買ったのはいつ頃ですか。
 
雲井 4、5年になると思います。でも買ってしばらくは、仕事では他の楽器を使って、“SENZO”は家で趣味として吹いていたんです。あるとき「この楽器にはどんなリードが合うんだろう」と思い、ジャズ用も含めてありとあらゆるリードを買ってきて試した結果、バンドーレン青箱の2番のリードがベストマッチでした。2番はペラペラというわけではなく、素材がしなやかなんです。
 
 そもそも僕はマウスピースだけでも、金管楽器のバズィングと同じように1オクターブくらい音を変化させられるので、その中のどこで吹くかを選んで楽器を吹いているんです。その柔軟性がなければ、楽器のコントロールなんてできません。
 学生にレッスンしても、最初は決まった音程の音しか出せないんです。でも「1オクターブ変化させてごらん」と言うと、器用な子はすぐできますよ。そういう子はすぐ上手くなります。それができると、耳で聴いて自然に音色を変えたり、音程を合わせたりができます。ところがマウスピースで一本やりの音しか出せない固い吹き方の人は、変な指づかいで誤魔化すしかない。そうすると、特にサクソフォーンの楽器としての弱点でもある、真ん中のド♯-レの半音がうまくつながらない。
 武田先生(武田忠善=クラリネット奏者であり国立音大学長、〈ビュッフェ・クランポン〉“レジェンド”使用)は、半音階のレガートがものすごくきれいなんですよね。朝早く大学に行くと、先生のレッスン室からスケールとアルペジオを練習しているのが聴こえるんですが、本当に上手い(笑)。
 
  ちょっと話がそれてきましたが(笑)、荻島さんも“SENZO”を買ったいきさつを教えてください。
 
荻島 生徒に「“SENZO”を選定してほしい」と言われたんです。楽器を選んでいたら、すごく自分の方向性に合っていると感じるようになりました。もともと雲井先生が“SENZO”を吹いているのを聴いて気にはなっていたし、ちょうど自分も楽器を買い替えようかと思っていたタイミングだったので、急遽自分用も選んで購入しました。
 
 楽器に「出会った」という話をよく聞きますが、「ああ、こういうことか」と思いましたね(笑)。その頃、音を集中して鳴らすのではなく、もっと開放する感じで豊かに鳴らしたいと思っていたんです。でもなかなか思うようにならず、ただ音がベーッと開いてしまったりとか、逆に詰まってしまったりとか。それが“SENZO”を吹いたときに、自分のイメージにぴったり合う音が出せたんです。
 
 中学1年生で雲井先生の音を初めて聴き、その後『サクソフォーン・リサイタル』というCDをずっと聴いていたこともあって、雲井先生の音は自分の中に刷り込まれていました。大学のときは先生を真似しようとしていた時期もあったのですが、「真似していても上手くいかない」と思って自分の音を探ろうとしました。
 今回“SENZO”に出会い、実際に楽器を吹いてみて、この楽器なら誰かの真似ではない自分の音が出せるという確信が持てたので購入しました。
 

“SENZO”という楽器は「装う」という努力は必要なくて、自然にクラシカルな音が出るんです

 
  別のメーカーの楽器から替えて、苦労したことはありませんでしたか。
 
荻島 すごく気に入って買ったんですけれど、思ったような音が出ないと感じるようになりました。改めて奏法を考えてみたときに、それまで息をピンと張って速い息で吹いていたということに気づいて、息のスピードを遅くしていくことで楽器の反応とか、出てくる音が変化することがわかりました。特に“SENZO”という楽器はその変化が如実に現れるんですね。楽器が正しい道を示していたと言ってもいいと思います。その吹き方で他の楽器を吹いても、やはりいい音がするんです。
 
荻島良太氏
 
雲井 特にヴィンテージの楽器は、そういう息の使い方じゃないとうまくいかない。一般に「息のスピードは速い方がいい」というイメージがありますが、そうではない。「遅くて馬力がある息」と僕は言っています。言い換えれば「高トルクで低速」。速い息はちょっとの障害物で止まってしまう感じがあるじゃないですか。
 
荻島 オーボエやクラリネットなど、サクソフォーン以外の木管楽器を吹いてみたときに、きちんと吹かないと音も出ないわけです。その感覚に似ていると感じました。
 
雲井 サクソフォーンはちゃんと吹かなくてもそれなりの音は出ますからね。
 
  簡単に音が出てしまうから、「それでいい」と思ってしまいがちなんですね。
 
雲井 そう言うと語弊がありますが、まあ、そうなんですよ(笑)。でもオーケストラの中で、他の管楽器の人たちと一緒に吹くのだったら、その楽器の人たちと同じレベルの、クオリティの高い発音をしないといけない。
 僕が先日あるオーケストラで吹いたときに、団員の人からこういうコメントをもらってすごく嬉しかったんです。抜粋すると、「これまでサクソフォーン奏者の皆さんは、その曲の中でいかに自分を表現するか、ということに重きを置く方がほとんどでした。しかし《展覧会の絵》も《アルルの女》も、弦楽器の人たちが雲井さんのソロを聴いて、『うちのオケの人が持ち替えで吹いている感じで、初めて伴奏しているのではなく一緒に音楽をやっていたと思った』と言っていました」。これは“SENZO”に替えて初めてオーケストラで吹いたときのことです。
 
 今までクラシック的に吹こうと思って努力していたけれど、“SENZO”という楽器はそういう音が出るように作られているから、「装う」という努力は必要なくて、自然にクラシカルな音が出るんです。だから「オーケストラと一緒に演奏する」という感じになる。何しろ、ビュッフェ・クランポンという会社はクラリネットを作って、世界中で使われているわけですから、そのポリシーはサクソフォーンを作るときでも同じなのだと思います。
 
荻島 今おっしゃった「クラシックの音がする」というのはすごく感じます。例えばヴァイオリンって、ポップスとかジャズの中に出てきてもクラシックの香りがするじゃないですか。それが“SENZO”の音に含まれているということが衝撃でした。今まで〈ビュッフェ・クランポン〉の楽器を吹いたことがなかったので、余計にそう感じました。
 
雲井 サクソフォーンって、「オーケストラの中でこうあらねばならない」という縛りがないから楽器自体がどんどん機能的になり、音色も豪華になっていくけれど、例えばクラリネットの音色が様変わりしてしまうことはなく、楽器固有の品格やテイストを保ちながら高性能になっていくんです。サクソフォーンはそこから離れてしまったものもありますが、〈ビュッフェ・クランポン〉の楽器は“SENZO”に至るまでずっと保っているんです。
 
 自分の吹き方も同じで、オーケストラで《アルルの女》を吹くように、ソロでもカルテットでも吹いています。雲カルは楽器は〈ビュッフェ・クランポン〉ではありませんが、オケマンと同じような考え方の人たちが集まっているのでああいう音が出るんです。
 
荻島 オーケストラの中では、サックスより音の小さいはずのフルートやクラリネットはハッキリと聴こえて、大きいはずのサックスがハッキリと聴こえないのが不思議でした。それはどうしてだろうと考えていたのですが、雲井先生がNHK交響楽団で吹いているのをテレビで見ていて、ひとつのオーケストラの楽器として、他の木管楽器と同じように溶け合いながらきちんとサクソフォーンの音が聴こえてきたんです。「こういうことができるんだなあ」とあらためて思いました。
 
雲井 特に素晴らしいことではなく、そうあるのが自然で普通なんだと思いますよ。でもサクソフォーンという楽器の音がそこから離れていったから、作曲家もだんだんオーケストラで使わなくなったのではないかな。
 
  ところで荻島さんは“SENZO”に替えてからヴィーヴ!ではどんな反応でした?
 
荻島 メンバーからは「結局は荻島の音だね」と言われますが、アンサンブルの中で「すごくよく聴こえる」とも言われました。ヴィーヴ!は音量や表現がパワフルなカルテットなのですが、“SENZO”は柔らかい音色の中に力強さもあって、存在感を示すことができるんです。
 
雲井 ソプラノの“SENZO”も出してほしいなあ。そうしたら、ソプラノでももっとクラシカルな感じで演奏できると思うので。今出ているソプラノの多くは、だいだい賑やかになってしまう傾向がありますからね。
 テナーも期待しています。このあいだは、1970年代の〈ビュッフェ・クランポン〉のテナー“スーパーダイナクション”を買ったんです。修理して使ったら、すごくいい音がしていますよ。
 
  最後に、今後やりたいことなどありますか。
 
荻島 サクソフォーンのオリジナル曲だけでなく、ヴァイオリンの作品などサクソフォーンでやっても意味があるものを編曲して演奏する機会が今も多いのですが、“SENZO”で吹いたときに、それまで以上にしっくりくる感じがありました。今後そういうクラシカルなレパートリーをもっと広げていきたいと思うのがまずひとつ。その逆で、バリバリの現代曲をこの楽器で吹いたらどうなるんだろうという興味も湧いています。一見無機質に思えていた曲も、また違う側面が見えるのではないかなと考えています。
 
雲井 荻島君はヴァイオリンの曲と言ったけれど、僕は今ヴィオラの、誰もやらないようなレパートリーを探しています。例えばヴァンサン・ダンディなどもヴィオラの曲を書いているんですよ。もしくは、ヴィオラの人が他の楽器からアレンジしたようなものを吹いてみる。ヴィオラの人たちもレパートリーの不足に悩んでいるので、彼らのやっていることを追跡して、サクソフォーンでやってみたいなと思っています。
 
 それから、クラシカル・クロスオーバーと言うのかな、聴きやすいメロディだけれど素晴らしい楽曲をやっていくという方向性も自分の中にはありますね。
 もしクラリネットを吹いていたとしたら、65歳なりのブラームスやモーツァルトをやっているでしょうが、サクソフォーンに65歳なりに吹けるクラシック曲って何がある? グラズノフくらいじゃないかな。
 だからこの楽器の音を生かせるような様々な曲を、自分の体力がある限りやりたいなと思っているところです。
 
  ありがとうございました。
 
荻島良太氏(写真左)、雲井雅人氏(写真右)
 
 
※ 雲井雅人氏、荻島良太氏が使用している楽器の紹介ページは以下をご覧ください。
〈ビュッフェ・クランポン〉アルトサクソフォーン”SENZO(センゾ)

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