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Michel Arrignon Interview 2019

エコール・フランセーズの巨匠、ミシェル・アリニョン氏。伝説的なクラリネット奏者、そして教育者として活躍する傍ら、長年にわたり楽器開発にも貢献してきたアリニョン氏に「自分史」を振り返っていただきました。(インタビュー:木幡一誠 通訳:檀野直子 2019年8月9日 東京にて)

 

「恋に落ちた楽器」を手に、生徒たちとも育む音楽への愛

  クラリネットとの出会いはどのようなものだったのでしょう?
アリニョン(敬称略) いい質問です(笑)。祖父が趣味でクラリネットを吹いていたのですよ。初めて音を聴いて、すぐ恋に落ちましたね。そのとき祖父は確かクローゼのエチュードを練習していて、私は8歳だった。プロの先生にレッスンを受け始めたのは10歳。父の仕事の関係でフランス国内のいろいろなところを転々としていたのですが、ブルターニュ地方のサン=ブリューに住んでいた頃のことです。今の私が家を構えている大西洋岸のオレロン島にも近い、小さな街。そこで3年間先生について習い、パリ音楽院入学に向けて準備しました。

  既にプロの音楽家を志していた?
アリニョン (即答して)ええ。クラリネットを勉強しながら、たとえばヴァイオリンならアイザック・スターンやユーディ・メニューイン、ピアニストではサンソン・フランソワなどの演奏を聴いて魅了されていましたし、歌手のマリア・カラスは本当に好きでした。音楽家になりたいと、楽器を始めたときから夢見ていたものです。

   1964年に入学したパリ音楽院ではユリス・ドレクリューズに師事。非常に厳しい先生だったと漏れ伝わっています。
アリニョン  そのとおり(笑)。私が入学したとき、音楽的には相応のレベルにあったと思います。しかしテクニック的にはまだ必要な水準に達していなかった。エチュード3曲と音階を毎週の課題に出されて、最初の1年は本当に大変な思いをしましたね。形としてはグループ・レッスンで、クラスの全員が他の生徒の演奏を聴く。これは特にパリ音楽院の伝統というわけではありませんが、私が教授だったときも、同じ曲でレッスンを受けている人は一緒に集まることにしていました。クラスの仲間が教師から助言を得ている間に、“自分だったらどうするだろう?”と考える時間を持つのは重要なことです。

  2年後にパリ音楽院を卒業してから、アメリカへ留学されています。
アリニョン 奨学金の試験に合格したので、夏のアカデミーに3ヶ月間参加したのです。ピーボディ大学から来ていたフォレスト先生について学びました。得ることの大きい経験でしたね。特に音色の多様性や、音の強さを身につけるという点において。編成を拡大したオーケストラで、普通なら4人ですむクラリネットパートが8人もいるような大所帯で吹いたりもしたのですよ(笑)。

  音色の多様性という言葉がありましたが、フランスのクラリネットの伝統的なサウンドに対して、さらに何かを求められたということでしょうか。
アリニョン 私がパリ音楽院で学んでいた頃のフランスのクラリネットといえば、やや細めで、いってみればランスロのような音。アメリカに行って“丸くて強い”音に初めて接して、別の可能性もあることに目を開かされました。そして実際のところ、パリ音楽院で私の前に教授をつとめていたギイ・ドゥプリュなどの世代が、やはり同様の態度で、フランスのクラリネットに新しい音の傾向をもたらしたと感じています。背景として指摘できるのがオーケストラの変質で、フランスの楽団でも、より大きく強い音を求める方向性が強まっていったことが関係している。それは1967年にパリ音楽院管弦楽団がパリ管弦楽団に改組されて以降の時代の流れでもあり、特に管楽器に大きな影響を与えたのですね。

  24歳のときにジュネーヴ国際コンクールで2位を受賞されました。若い奏者がコンクールに参加することの意味は、どうお感じになるでしょう。
アリニョン 私が受けた頃と現在とでは、コンクールの持つ意味合いが変わってきています。1972年当時は、ミュンヘン、ジュネーヴ、ブダペストをはじめとする5つのコンクール程度しか大きなものがなく、自分の名前を世に知らしめる上で良い機会になっていたことは確かでしょう。ジュネーヴを初めて受けた1966年には、一次を受けたところでとても自分のレベルが達していないと実感しましたね。それから猛練習を積んで、1972年では受賞につながったわけですが……。思うに、現在はコンクールの数が多すぎる。管楽器でソリストとして活躍を続けられるのは世界で十数人もいないことを考えれば、オーケストラの入団試験のために準備を積んだほうが得策だったりもします。それにせっかくコンクールで良い成績を収めても、また5年も経てば再びコンクールで別の才能が出てきて取って代わられるようでは、決して望ましい状況と呼べません。

  コンクールを受けたいという生徒に対して、具体的なアドバイスをすることもありますか?
アリニョン 率直に意見を伝えるべきだと思っています。まだ準備ができていない人間がコンクールを受けて、結果的に何も得られないということは避けるべきですし。オーケストラのポストを得るのか、教職につくのか、数としては限られているがソリストや室内楽奏者の道を歩もうとするのか……。クラリネット奏者としての将来を見据えた指導をするのも教師の責任です。そして何よりも大切なのは“良い音楽”を演奏することであり、それには時間の積み重ねが必要です。ソロ活動や自分のキャリアに野心を燃やしたあげく、音楽を見失ってしまっては何もなりません。

  1989年から20年にわたってパリ音楽院の教授をつとめ、2009年からはスペインのレイナ・ソフィア音楽院で教鞭をとっておられます。若い演奏家を育てる上での“信条”として掲げていらっしゃることは?
アリニョン 生徒がある程度のレベルに達しているという前提でいえば、音楽への“愛”を育むことですね。アンブシュアをはじめとするテクニックを磨くことが、すべて最終的には音楽を表現する手段へ結びつくように……。昨日も(ビュッフェ・クランポン・ジャパンが主催する)「BCJ クラリネット・アカデミー」で、受講生がシューマンの「3つのロマンス」を吹くのに接しました。テクニック的なことはさほど要求されませんが、音楽的な内容を極めるのは難しい。そんな作品に向き合う上で大事な姿勢です。今の学生はテクニックに関して、これまでにないほど進歩を遂げていますが、心を打つ表現までそこに同居しているとは必ずしもいえない。音楽を真剣に聴いていないようにすら思えます。音楽への“愛”がなければ、ただ演奏を競い合うだけのオリンピックみたいなものになってしまいますよ。

 

演奏家としての軌跡に連動する、あくなき開発者としてのスタンス

  アリニョンさんのキャリアを語る上で欠かせないのは、1976年にピエール・ブーレーズが結成した、現代音楽に特化したソリスト集団、アンサンブル・アンテルコンタンポランでの活躍です。この団体に参加したきっかけは?
アリニョン その前には2e2m(ドゥゼ・ドゥエム)で演奏していました。1972年にポール・メファノが設立した、フランスでも最古にあたる現代音楽専門の団体。私は同時代の作品に関心があり、重音奏法などを用いた新しい響きの可能性にとても惹かれるものを覚えていたのです。未来の音楽的語彙に自分が関わっている感覚といえばよいでしょうか。この分野での活動をしばらく続けていきたいとの思いから、アンテルコンタンポランの入団試験を受けに行って……。

  試験ではどんな曲を?
アリニョン それはもう、よく覚えています(笑)。まずブラームスのソナタ第1番。これで2〜3人にまで絞られてから、ブーレーズの「ドメーヌ」を作曲者の前で吹きました。そこでブーレーズの目にかなった人間が選ばれたわけです。指揮者としての彼は、ご想像のとおり非常に要求が多い。しかし年輪を重ねてからは同じように要求が多くても、態度がより丸くなったというか、演奏者がやりやすいような気配りもしていたと思います。彼のもとで本当に多くを学びましたね。たとえば、厳格さを保ちながらも、その中で自由に演奏すること。これは今も自分の中で大切にしており、生徒を教えるときにも意識します。

  ブーレーズの指揮のもとで多くの録音に参加されたと思います。特に印象に残っているものは?
アリニョン シェーンベルクの「室内交響曲第1番」作品9と、ダニエル・バレンボイムのピアノとピンカス・ズーカーマンのヴァイオリンをソリストに招いたベルクの「室内協奏曲」が思い出されますね。

  1984年にはパリ・オペラ座の首席奏者に転身。
アリニョン 7年間をアンテルコンタンポランで過ごし、もう十分に経験を積んだという気持ちになっていました。そしてオペラ座の首席奏者というのは、子供時代からの夢でもあったのですよ。私にはクラリネット吹きとして抱いていた夢が2つあり、もう1つはパリ音楽院の先生になることでした……。しかし実際、オペラ座とアンテルコンタンポランではレパートリーがまるで異なるので、丸1年は時間をかけて準備。オーディションに受かったときは本当に嬉しかったですね。アンテルコンタンポランで現代音楽をこなしていたときは、マウスピースがヴァンドーレンのB45でしたが、叙情的に“歌う”表現を、より自然にこなせるようビュッフェ-シュライバーのNo.125というマウスピースに変えたりもしました。

  そのオペラ座に在籍中の1985年から、〈ビュッフェ・クランポン〉のテスターをつとめていらっしゃる。クラリネットを始めた頃から現在に至る楽器遍歴も相当なものになりそうですが……。
アリニョン 学生の頃に手にしていた最初のクラリネットが“BC20”。それから“RC”、“RCプレスティージュ”を経て、オペラ座に入ったときは“R13”を吹いていましたね。これはとても良い音色の楽器で、しかし同じ“R13”でも現在の改良を加えられたモデルに比べると音程のバランスが万全とはいえず、それが私も開発に関与しながら新たに“フェスティヴァル”が生まれるきっかけになりました。いわば“R13”の娘にもあたる“フェスティヴァル”と、そのグリーンラインモデルをしばらく吹き、それから“トスカ”の試作品も1年ほど……。これは“フェスティヴァル”のロゴがあるのに中身は違うというもので、私がその頃“トスカ”を吹いているとは誰も気がつかなかったはず(笑)。

  そしてさらに“トラディション”と“レジェンド”の開発に携わった。
アリニョン 私にとって原点ともいえる“BC20”のサウンドを蘇らせたいという思いから実現したものです。“R13”と“RC”にそれぞれ別の系統として備わる内径のデザインとは違った、古いタイプの内径デザインに現代の製作技術を結びつけることが可能ではないかと……。私とポール・メイエ、ニコラ・バルディルーの3人が開発に参加しました。テスターと技術者が意見を交換しながら理想的なコラボレーションができたと思います。試作品に息を吹き込んだとき、ポールとニコラに向かって「これ、この音だよ!」と叫んでしまったのが忘れられませんね。“トラディション”と、その上に位置する最高機種の“レジェンド”、そして“トスカ”のグリーンラインを吹き分けているというのが現在の私ですね。

  今や3つの系統からなり、それぞれに銘器がひしめきあう〈ビュッフェ・クランポン〉のクラリネットですが、他のメーカーからは得られない美質や魅力があるとすれば、どう形容されますか?
アリニョン どの系統の楽器にも共通した、〈ビュッフェ・クランポン〉固有のサウンドというものがあります。言葉にするのは難しいのですが、倍音をたっぷりと含んでいて、低音1つを鳴らしたときでも高い音域のオーバートーンが耳に響いてくるような……。それがホールを豊かに満たす。ヴァイオリンのストラディヴァリウスみたいなものですね。

 

※ アリニョン氏が使用している楽器の紹介ページは以下をご覧ください。
レジェンド
トスカGL
トラディション

※ トラディションは2019年6月にバージョンアップされ、接合部分の補強リングやLowFコレクションキーなど、仕様の一部が“LÉGENDE”と同等になりました。詳しくはこちら

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